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「幸せにならなければならない」なんてことはない

こんにちは。
入社もうすぐ3年目の遊佐です。
表題について書きます。
独り言のような内容です。
文章の鮮度を落とさないよう、
推敲は最小限にしているので、あらかじめご了承ください。
 
 
— — — — —
 
僕には完璧主義なところがあって、
それが”ねばならない”を増やして増やして、
人生をがんじがらめにしている。
それはなぜか。
飽食の時代と呼ばれてしばらく、
衣にも食にも住にも、
日本は最低限度の生活の水準が高い。
そうすると、人は自分で”幸せ”の定義を見つけなければならない。
見つけなければならない?
そんなことはない。
“幸せにならなければならない”なんてことはない。
人生の外側に意味なんてない。
生きていること自体が意味。
たとえば、意味のある人生、意味のない人生なんてある?
そんなものない。
人生の外側に意味なんてない。
人生そのものがあるだけ。
そこから何が見える?
どんな景色が見える?
どこへ行こう?何をしよう?
“クズになる自由”がある。
別に立派にならなくてもいい。
別に人生の目的なんて、天命なんてなくたっていい。
“失敗”なんてない。
無駄な時間なんてない。
生活は続くから。
すべては経験、いずれ一本の糸につながる、ひとつひとつのビーズのようなもの。
散らばった色とりどりのビーズ。
フラットになる。
裸になる。
一度すべて壊して、そこからゼロから、何をつくろう?
100年くらいの暇つぶし。
人生の主導権を握る。
社会には、”取り返しのつかないこと”がある。
そういう罠に気をつけて。
一時の感情や欲望に惑わされても、
人生の手綱を放すな。
水辺と草原と森と荒野、空気と星、
100年の時間。
どこへ行こう?何をしよう?
そこから何が見える?
最後に、最近学んだ”生きがい”の話。
人とコトの関係性。
「好きなこと」「得意なこと」「世間が必要とすること」「稼げること」の4つの円。
それらが重なってできる様々な領域、
その中心、4つの円が重なったところに、その人の”生きがい”があるらしい。
 
 
生きがい.png
 
 
(引用: 山田将史, 「生きがいとは何か? ―――好きで、得意で、稼げて、必要とされること」,
http://ichi-shutsu.com/?p=335, 参照2018年3月12日)
 
 
ここからは個人的な解釈だけど、
「得意」と「稼げる」はあとからある程度ついてくると思う。
考える出発点は、「好き」。
ここだけは、ごまかしがきかない。
夢中になってできること、ついやってしまうこと。
それは往々にして、自分が「できない」「苦手だ」と
思っていることとイコールだったりする。
そのことへの理想が人一倍強いからこそ、
自分はまだまだだ、できていない、と自分に厳しくなる。
言葉を変えれば、それだけそれがやりたい、そうありたいと強く願っているということ。
それが「好き」「やりたい」。
それを必要としている人はいないだろうか。
いるならば、それば「世間が必要とする」でもある。
あとはただ一心不乱に、それを極めるだけ。
亡霊のように、取り憑かれたように、
花のように毒のように、
それを突き詰めていけば「得意」「稼げる」は自然とついてくる。
そうやって見つけるのもひとつの手。
でも見つけ”なければならない”なんてことはない。
生活は続く。
そこに意味なんてない。
どこへ行こう?何をしよう?
そこから何が見える?
 
 
— — — — —
 
 
好き勝手書かせてもらいました。
ここまで読んでくださりありがとうございます。

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