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煩悩の中に鉱脈がある

小さい頃からゲームが好きだった僕が、
「貢献のための成長」を社名に掲げる会社で、
仕事と遊びのバランスについて悶々としていたら、
思わぬところですとんと腹落ちした、という話を書きます。
 
こんにちは。
入社2年目の遊佐といいます。
システムグループに所属しています。
 
この前、最新のゲームを買いました。
ゲームを買うのは、約2年ぶりのことです。
 
それが仕事と遊びを巡る、ジレンマのはじまりでした。
 
 
仕事について言えば、
僕はこの会社にいられて本当に幸せだと思っています。
 
会社が目指している世界観にも心から共感しているし、
その実現のために一緒に全身全霊を注ぎたいと思っています。
(そのあたりのことは↑のヘッダーメニューの会社概要>企業理念が詳しいです。)
 
 
一方で、貢献のための成長、だけが幸せではないとも感じています。
 
 
僕は小さい頃から、ゲームが好きでした。
ゲームを通じて、笑ったり、泣いたり、わくわくしたり、
いろんな感動を味わってきました。
 
しかし、年を重ねるにつれ、
世間で認められる価値あるものとの間にギャップを感じはじめ、
だんだんと純粋に楽しむことができなくなってきました。
 
 
いつからか、
理想へと一歩ずつ近づいていくたびに、
故郷からは一歩ずつ遠ざかっていくような、
えも言われぬ寂しさを感じていました。
 
仕事と遊び、メリハリをつけて両立できればいいのですが、
僕にはそれが、仕事への向き合いかたとして中途半端なように感じられ、
かといってゲームへの望郷も拭いきれない、という状態で、
いつしか職場ではどこか罪悪感のような後ろめたさを抱えて、
日々を過ごすようになりました。
 
そんなことを、後輩に話してみました。
彼の返答は、だいたい以下のようなことでした
 
 
・僕には自分の「遊びたい」という感情を見つめるやさしさがある
・そのやさしさは、僕から周囲の人へのやさしさにもつながっている
 
 
なんというか、救われるような、
視界を覆っていた霧が突然晴れていくような言葉でした。
 
 
振り返ってみると、入社当初にイメージしていた貢献とは、
自分の感情を押さえつけるようなストイックさが伴うもので、
それはともすれば、表面的なものでした。
さらに悪いことには、自己犠牲や、被害者意識や、
自己陶酔というまったく別の感情をも伴うようなものでした。
 
でも、本当は、貢献したいという本性は、
遊びたいというような感情と相反するものではなくて。
 
自分の中を見つめると、
目を背けたくなるような感情や、氷塊のように凝り固まった理性の奥に、
たしかに「助けたい」「救いたい」「役に立ちたい」という本性があって、
そこから聞こえてくる声に耳を傾けて、自分を使うことが、
本当に純粋な貢献だったんだなあということを思い出しました。
 
 
そして、実はごちゃごちゃした感情や理性の中にこそ、
その人にしかできない貢献の原石が眠っていたりするということに、
気づかせてもらいました。
 
 
ちなみに、そんな自分への甘さとも取れるやさしさは、
父親や兄から受け継いでいるものだなあということにも気がつきました。
 
ゲームは一日一時間だった自分を、
こっそり部屋に招き入れて、一緒になって夜遅くまでゲームをしてくれた兄の、
あのやさしさが、僕が誰かにしてあげたかったやさしさだったんだなあと思います。
 
 
そんなことに気づかせてくれる、
そんな自分を受け入れてくれる人たちがいるこの環境に感謝して、
終わりたいと思います。
 
 
ありがとうございました。
遊佐.JPG

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